およそ30年前、日本がコメの部分的輸入を受け入れた日米交渉の詳細が、公開された外交文書により明らかになった。1993年、貿易自由化を議論したGATT・ウルグアイラウンドでは、農産物の「例外なき関税化」が焦点となり、国内農家の強い反発を受けながらも、日本は一定量のコメ輸入を「ミニマムアクセス」として受け入れることを余儀なくされた。
交渉の背景には、宮沢喜一首相とクリントン米大統領との首脳会談があった。宮沢首相は、過去の牛肉・かんきつ類の輸入自由化で自民党が選挙で敗北した経験を引き合いに出し、コメ市場開放に反対する姿勢を示した。一方で、アメリカ側は「日本だけを例外扱いすることはできない」と強硬な姿勢を崩さず、交渉は終盤にかけて厳しいやりとりが続いた。
転機が訪れたのは、自民党に代わり発足した細川護熙首相率いる連立政権の時期であった。GATTから提示された「調整案」を受け入れ、日本は全面開放を避ける一方で、一定量のコメ輸入を義務づけられる形で妥結した。この決定について、細川首相は「国益を考えた厳しい決断」との談話を発表している。
公開された外交文書の詳細
26日に公開された文書には、当時の日米交渉の経緯が詳細に記録されている。これには宮沢首相とクリントン大統領の会談内容や、細川政権下での最終交渉の様子が含まれる。また、羽田孜外務大臣がジュネーブで最終交渉を報告する文書も公開されており、「最大限の努力を行った」との内容が記されている。外交文書の一部は黒塗りが施されているが、外交史料館や外務省のホームページで閲覧可能である。
「ウルグアイラウンド」と日本の対応
「ウルグアイラウンド」は、1986年から1994年にかけて行われた国際交渉で、農産物の関税化や知的財産権の扱いなど、幅広い分野にわたるルールが議論された。特に日本のコメ市場開放は大きな議論を呼んだが、最終的に部分的な輸入を認める形で決着した。
首相たちの英語駆使と国際的評価
今回の文書には、宮沢氏と細川氏が英語を駆使し、国内外から高評価を得た記録も含まれる。細川首相は国連総会で英語による演説を行い、「日本の変化を感じる」との評価を得た。また、宮沢首相も首脳会談やG7東京サミットで英語を用い、外交交渉を主導したことが記録されている。
公開された外交文書は、30年前の日本外交の実態と、その舞台裏での苦悩を浮き彫りにしている。これは、国民が当時の歴史を振り返る貴重な資料である。